この話は前にもどこかに書いた気がするのだが、気にせずに書く。
今から12年前の話だ。大阪を離れ関東にやってきた中野が最初に暮らした街は所沢だった。引っ越して間もない時分、当然誰も知る人はいない。とりあえずはじめた飲食店のバイトと家とを往復しつつ、時間を見ては東京の街をいろいろと散策する日々だった。
そんな孤独なある日、中野の住むアパートの階段踊り場に、茶色い昆虫の死骸があった。言うまでもなくゴキブリの死骸だ。どこかで殺虫剤を食らって逃げたものの力尽きたか、あるいは普通に寿命か、とにかくそのままの形のゴキブリの死骸だ。
誰も片付ける人がいなくて、毎日そこにある死骸。というかその2階建てアパートの2階は空き部屋ばかりで、中野しか住人がいなかったのだ。中野が気にしなければだれも片付けない。
毎日死骸の横を通るうちに、なんとなしにその死骸に挨拶をしていた。
「よ、おはよう」
「ただいまー」
こうなると名前もほしい。ゴキブリだから名前はコック郎にした。
こうして挨拶もする仲になると、コック郎はなかなか気のいいやつだ。ゴキブリであることとすでに死んでいることに目をつむれば温和でおとなしく無口な付き合いやすい人物であった。
そんなある日、台風が上陸した。
飲食店で働きつつもコック郎のことが気になっていた中野は、仕事が終わると嵐の中まっすぐ家に向かった。
コック郎はいなかった。
中野にとっての、関東での最初の別れであった。どんな形であれ、別れというものは少し悲しくて少し美しい。そして時々おかしい。
このことがあったせいか、映画「
キャストアウェイ」でのウィルソンとの別れのシーンが他人事とは思えないほどに感動する。そうでなくともとても悲しくて美しくて、非常におかしいシーンなのに。